「上杉文書」編成および史料解題

編成に関する基本的な考え方

 これまで「上杉文書」は、昭和44年(1969)に雄松堂から発行された『マイクロフィルム版 上杉文書目録』の分類と史料番号を用いて、現物及びマイクロフィルム版により、長く利用に供されてきた。今回の調査事業に際し、江戸時代や近代の早い段階に作成された網羅的な目録を探したものの、確認できなかった。また、かつての保管容器はほとんど現存しておらず、新たな保管容器(桐箱)に入れ替えられている。市立米沢図書館における整理段階で、分類に合わせて保管状況と番号が変更されたと考えられる。このため、現用段階の目録や保存容器に基づく編成は困難であった。

 よって、今回の編成に際しては従来のマイクロフィルム版の分類を尊重し、第1項目を立項した。従来の分類(Ⅰ~Ⅻ)と本目録の編成項目の対応を示せば、 Ⅰ 領知・Ⅱ藩侯→上杉家、Ⅲ法制→法制、Ⅳ 藩政→藩政、Ⅴ 軍事→軍制、 Ⅵ 藩士→家臣団統制、Ⅷ 戊辰役→幕末維新期となる。Ⅶ 越後・会津、Ⅸ 年表、Ⅹ 其他、Ⅺ雑(マイクロフィルム未収録)は適宜編成し直し、伊佐早謙関係、典籍、諸家文書を立項した。Ⅻ絵図の編成は第4分冊に収めた。

 第2項目については、従来の分類を参考にしつつ、出所や主題などに基づいて新たに立項した。第3、第4項目は、利用の便を考慮し、年代順や内容、史料群のまとまりなどを基準に細分化した。

上杉家 (2,700点)

 狭義の「家」(御家)の文書である。中世から近世の、上杉家当主(藩主)としての領知、幕府・朝廷との儀礼や勤役、他大名家などとの交際などの史料、家に直接かかわる近世段階の編纂物(年譜、系図、古文書集類)、先例や年中行事などの儀礼書、藩主や一族の私的活動に関する史料などを収めた。なお、近代の上杉伯爵家関係などは基本的に【幕末維新期―廃藩置県以降】に収録した。

領知 (29点)

 将軍代替わりに伴う知行判物発給や国絵図作成をはじめ、幕府の命令によって提出を求められた帳面などを挙げた。「高辻帳」は、領知判物発給のためのもの(№ 0001~0006・0008~0012)、享保10年(1725)の幕府からの国目付派遣に伴うもの(№0007)、天保期の幕府による国絵図作成に伴うもの(№0013)がある。また、正保・元禄・天保の国絵図制作に関わって作られた「郷村帳」(№0013・0015~0018)や「知行高目録」(№0014)、「変地帳」(№1810)がある。国絵図については、第4分冊の「国絵図」もあわせて参照いただきたい。

幕府 (1,396点)

 ここには上杉家と幕府との贈答、幕府からの監察などへの対応に関する文書を収めた。
 【御内書】は全5冊の冊子状にまとめられていた、秀忠時代から天明年間にわたる、2代藩主定勝、3代綱勝、4代綱憲、5代吉憲、8代重定、9代鷹山宛の江戸幕府将軍御内書を収めた。いずれも贈答への答礼状であり、内容は端午・重陽・歳暮の3季のみの発給に限定されていくが、秀忠や家光にはそれ以外の理由もみられる。景勝宛の家康・秀忠の御内書、家光を含めた将軍就任以前の書状などは国宝「上杉家文書」に収められている。
 【老中奉書】は、元和9年(1623)から寛政11年(1799)にわたる、2代藩主定勝、3代綱勝、4代綱憲、5代吉憲、8代重定、9代鷹山に宛てたものを収める。御内書同様に冊子状にされ、全26冊に及んだ。基本的に編年でまとめられているが、最終巻は吉憲、重定、鷹山ら宛が含まれ、補遺の性格を持つものと推察される。
 定勝・綱勝・綱憲宛は8通のみで、吉憲宛346通、重定宛422通、鷹山宛382通という構成である。内容は将軍家への献上に対する礼、将軍家の寺社参詣や慶弔、儀礼遂行などに関する見舞いへの返事、将軍家からの下賜に対する礼への返答や老中就任の祝意への礼など多岐にわたる。これらには老中のみならず、西丸付老中、側用人、老女、京都所司代、また武家伝奏や院伝奏などの朝廷の奉書も含まれている。さらに、受領した老中奉書を包んだ包紙も数点ある。江戸から米沢へ送付するもの、あるいは保存のためのものと推察される。以上の発給年次の比定は、『徳川実紀』、『上杉家御年譜』に拠った((5))。
 これらとは別にまとめられている綱憲宛の板倉重矩、土屋数直、稲葉正則らの各奉書(№0311―01~09)も贈答関連の老中奉書である。そして、これらと綱憲宛武家伝奏千種有能奉書(№0311―10)、吉憲宛 本多忠英奉書(№ 0311―11)がひとまとめにされている。斉憲宛 稲葉正巳奉書(№0318)は若年寄、重定宛 牧野貞通書状は(№0321)は京都所司代としての発給文書だが、ここに一括した。
 【巡見使・国目付】は、幕府からの監察使に関する史料を収めた。巡見使は幕府が諸国の支配の実情を監察するために派遣した使節で、5代将軍綱吉以降は将軍の代替わりを契機に派遣された。ここには宝永7年(1710)の事前準備から諮問への回答など(№0766)、天保9年(1838)の事前準備(№1676)の史料がある。
 国目付は、大名が幼少で継承した大藩に派遣され、数ヶ月にわたって国元に滞在し、領内巡見を行い、国絵図や分限帳を提出させ、政務の状況を調査した。上記史料以外は、享保10年(1725)の国目付派遣に関するものである。
 【贈答等】には右記には分類できない米沢藩・上杉家と幕府との関係を示す史料などを収めた。献上品(№0089・0996)、下賜品と使者の記録(№0260―01・03)、幕府への申請手続きをめぐる文書(№0284・0301・0938)などである。

御手伝普請 (31点)

 ここには、【享保期】として享保7年(1722)5月に米沢藩が従事した江戸城の普請の先例をまとめて提出したもの(№0285~0287・0701)と、【宝暦期】として宝暦4年(1754)の東叡山寛永寺普請の記録(№0288~0294)を収めた。前者は、慶長から寛永年間を対象とした分と慶長から慶安3年(1650)までの分があり、それと関わる江戸と米沢の通信の史料からなる。後者は、前年からの触書の集成、工事の経費や資材の受取などの史料である。

交際 (65点)

 ほかの大名家や幕府関係者などとの交際、米沢藩から他家へ派遣された使者などに関する史料を収めた。
 【他家より来状】は、斉憲もしくは茂憲に宛てた高野山清浄心院、大名、公家らの年始の祝賀の書状が中心である(№0247・0248・0312・0314~0323)。また、前田綱紀の書状は参議任官に対する祝意への返書(№0309)である。
 【使者饗応】は、尾張藩からの使者への対応(№0307・0308)、幕府からの奉書をもたらす使者への対応の記録(№0566)からなる。
 【御状留】には、米沢藩主が諸大名や幕府関係者などに送った書状の控えをまとめた。
 米沢藩からは幕府や朝廷、また諸大名などに藩士が使者として派遣された。藩主の任官や江戸からの帰国の報告、幕府儀礼や朝廷への祝賀など、目的も多様である。それらに関する日記や先例に関する史料を【御使者勤】にまとめた。

古文書集 (65点)

 【御書集】には、元禄年間の謙信・景勝の年譜作成のために行われた上杉家や藩士の所蔵文書の事前調査に際して制作された写本を収めた。上杉謙信発給・受給文書(№1070・1072)、上杉景勝発給・受給文書(№0076・0077)が該当する。また、「為景公御書」(№1067)、 「官庫書」(№1080)も冊子の体裁や表紙の色、記載形式、筆跡などから元禄4年(1691)の一連の制作と考えられている((6))。その視点からは「古案」(№1068)も同様の可能性がある。また、元禄4年の調査に際して作成された藩士の所蔵文書の目録(№0394)もある 。『上越市史』の資料編に翻刻されてい(7)る。
 南北朝期から近世初頭の文書の写しを収める「歴代古案」(№1069、口絵(8)4ページ)は、10冊であるが、各冊2巻からなり、全20巻の構成である。文書の収載範囲や収録のされ方などから、上杉謙信・景勝の年譜編纂を直接の前提としないが、それと関わりを持つ周辺の人物によって、延宝年間から元禄末年、もしくは宝永年間に編纂されたものと考えられている。詳しくは、『歴代古案』第5の「解題」を参照されたい。
 「秘庫存書」(№0743)は、主に上杉家の「秘庫」保管の上杉鷹山関係の書状や意見書類が収録されている。現在の国宝「上杉家文書」のうち、赤箪笥(坤)入りの文書が多く、近代に入り編纂されたものと思われる。

歴代年譜 (345点)

 御年譜は、謙信以下茂憲までの14代にわたる上杉家当主、および10代当主(9)鷹山の実子顕孝、米沢新田藩主初代勝周・2代勝承らの編年体の史書である。江戸時代には米沢藩の御記録方、明治以降は上杉家で編纂された。国宝「上杉家文書」には、謙信から13代当主斉憲、顕孝の分がある。「上杉文書」には、鷹山を除いた謙信から12代当主斉定までの年譜が収められている。鷹山については1冊にまとめられた略年譜(№0061)と、上杉家の子女に与えた教訓書などを収めた付録5冊(№0062)が「上杉文書」には収められている。ほかに景勝・斉定・斉憲の稿本(№0053・0067・0068)、顕孝の略年譜(№ 0064)などがある。

編纂物 (88点)

 上杉家当主の史書を中心に【家譜】として収めた。謙信以下の歴代ごとの叙述をする「三公外史」(№0050)や「大政録」(№1660~1662)、上杉憲実まで遡って歴代を叙述する「大政秘鑑」(№1659)など、中世山内上杉氏歴代や北条氏、長尾氏などの略伝などを載せる「米沢外史」(№0048)、謙信や直江兼続の文書を収める国分左兵衛「御書」(№1073)など、多様な史料がある。なお、「大政録追加」(№1062)・「御書」は明治30年代の購入である。
 以上は歴代を対象にした著作であるが、個人を対象にした【伝記】もある。片桐忠成「盍言篇」(№1044)・「朝陽私史」(№1055)は謙信の、「景勝公一代略記」(№0077)は景勝の伝記である。また、鷹山の言行録(№0072・1696)などもここに収めた。
 【系図】には、上杉家系図(№0029~0034・0037・0038)のほか、長尾氏(№0038・0039・1057・1060)、上杉家と姻戚関係にあった家(№1599)の系図なども収めた。

先例集 (72点)

 「定例明鑑」(№0538)は、藩主の叙任や上杉氏一門の家督継承、米沢における藩主の諸行事や江戸における年中行事などの先例について、宝暦10年(1760)にまとめられた。「定例亀鑑」(№0539・0540)は安永8年(1779)にまとめられ、「定例明鑑」と重なる項目も少なくないが、幕府からの御鷹の鶴の拝領や使者派遣や来訪、謙信景勝の法要や上級家臣の進退、政務などにより多くの分量を割いている。「御在府年於御国奉行江戸家老被 仰付先例書抜并定例亀鑑書抜□□に」(№0541)はこの抜書である。

儀礼・儀式 (539点)

 主に上杉家で執り行われた【年中行事】と、【隠居・家督】【婚礼】【初入部】といった吉事と、【葬儀】の儀式と、米沢城本丸にあり上杉謙信の遺骸を祀った【御堂】関係を収めた。上杉家の当主や家族が作成、授受した文書というよりも、これを補佐し、事務を分担した藩内の各部署の作成した家政に関する記録が大部分を占める。
 吉凶に関しては、藩内の各部署で作成された書類の原本が膨大に残る場合と、それらを案件ごとに編纂した大部の竪帳の2パターンが見られる。前者の書類原本ついては、明和6年(1769)の上杉鷹山の【初入部】と、旧来の木箱に収められた(口絵5ページ)、寛政6年(1794)の上杉顕孝の【葬儀】における事務連絡の書状類がまとまっている。なお、文政10年(1827)の上杉謙信250年忌関係(№0225~0227)については、便宜的に【葬儀】の項に収録した。

文芸・遊興 (51点)

 【目録】には、米沢藩の所有の書籍や刀剣、能・狂言で使用した諸道具の目録を配した。書籍の目録には、その増減や江戸から米沢への移動の記事などもみられる((10))。
 【漢詩】には鷹山、およびその実子顕孝の作品集、【和歌】には重定夫人豊姫の和歌や散文を収めた。能の興行や藩主の入湯、鷹狩などの記録は【遊興】としてまとめた。【馬術】は【諸家文書―武芸書】に収めるが、ここでは12代藩主斉憲が伝授された徒鞍流馬術書(№1564~1566)を【馬術伝書】としてまとめた。受給者が上杉家の当主であることが明確なためである。

当主・家族 (12点)

 当主関連の日記(写しを含む)をはじめ、書状・著作などを便宜的に一括した。天正14年(1586)の上杉景勝の上洛の日記(№0565―01・1056((11)))、3代藩主綱勝の上府の日記である「綱勝公御道中日記」(№0263)、綱勝の寛文3年(1663)の動向を記した日記(№0586)などをここに収めた。
 改革に関わる鷹山の意見書(№0178)やその姿勢に関する質問への回答(№ 0741・1740)をはじめ、政務関連の史料の一部もここに収めた。第5代米沢新田藩主となる上杉勝道が、甥の勝応に送った新年の挨拶状(№0392)も含まれる。

側方 (7点)

 藩主の着衣などの管理に当たる御小納戸の任免や職務内容の先例集、上杉家奥付もしくは子息付きの家臣や11代藩主斉定の小姓、米沢新田藩家老の日記などを便宜的に収めた。

軍制(239点)

 ここには米沢藩の軍事行動に関する史料を収めた。過去の合戦などの先例や実際の出兵の記録、藩士の軍備の調査、江戸後期における出兵計画書などである。

軍制先例 (23点)

 ここは米沢藩の軍制について、合戦や藩主の上洛、諸行事などの先例に関する史料を中心に収めた。
 「御兵具所口伝書」(№0867)5冊は、川中島合戦や会津勢遣などにおける軍事動員の状況や動員に当たっての武具の取り扱い、軍資金の使途の折衝の記録などを、御兵具頭の竹俣綱寛が安永5・6年(1776・77)にまとめたものである。また、慶長19年(1614)から翌年にわたった【大坂の陣】関連史料も、制作時期は区々だが、ここにまとめた。発布された軍令(№0833)や藩士への貸付金の記録(№0689)、冬の陣における上杉勢の動向(№0876)など、実態を伝える史料がある。米沢藩の諜報部隊「伏嗅組」の大坂の陣での活動を記して、その結成を示した由緒書(№0877)もここに収める。
 【軍令・行列等】には藩主の外出時の隊列(№0843)や鉄砲上覧(№0845)の心得、その他の行列帳や軍令集などを収める。「上杉氏諸士掟書案」(№0461)は、慶長5年(1600)9月3日付の直江兼続の山形出兵における軍令である。

武器改め (114点)

 ここには米沢藩が調査してまとめた中級藩士以上の所有する武器・武具の書上げを収めた。明暦2年(1656)、寛政6年(1794)・同9年、文化8年(1811)、天保12年(1841)、嘉永2年(1849)のものがある。江戸後期以降は外国船の来航や国内の政局による軍事的緊張の産物であろう。所属する組単位で作られている。また【旗指物馬験図】には「小旗之絵図」(№0865)のように藩士の旗指物・馬験の図を集成した史料もここに収めた(口絵5ページ)。寛永8年(1631)、寛政6年、天保12年のものがある。

家中軍役人数 (10点)

 ここには動員される軍勢数に関する史料を収めた。「具足紋等書上」(№0862―01)は、下級藩士や足軽等の具足や被り物などの軍装の規定である。また、寛永8年(1631)の「軍役人数書上」(№0862―02~09)は侍頭および各組ごとの動員数などをまとめている。「御記録所」印の押された文久2年(1862)に登坂高尚が筆写した「承応3年御軍役帳」写(№0854)もここに収めた。

上洛 (12点)

 ここには江戸前期、2代藩主定勝の上洛関連史料をまとめた。幕末の斉憲や茂憲の上洛については【幕末維新期―文久・元治年間/慶応1年~3年】に収めた。
 定勝の上洛は元和9年(1623)、寛永3年(1626)、寛永11年の3度に及ぶ。行列の記録(№0851・0858―01)のほか、供奉の藩士への支給金(№0259・1658)、輸送に使用した人馬の費用や宿賃(№0690)、在京中の交際・贈答の記録(№0261・0262)など、経費に関する史料が目立つ。「長大夫旧記」写(№1670)は、長尾家所蔵の寛永期の上洛の記録を、文久2年(1862)11月に登坂高尚が、上洛についての議論のために書写したことが記されている。

会津城請取 (18点)

 寛永20年(1643)、会津藩加藤家の改易に伴う会津若松城接収に関する史料である。派兵から帰陣までの記録(№0880)、軍勢の人数と内訳、条目など(№0881~0884)の中には同時代とみられる史料も含まれ、勢遣の全容をまとめようとした意図が窺われる。

明和年間手配 (21点)

 これらは幕命による出兵を想定した軍事編成や体制再編を、米沢藩重臣が確認・検討した史料とみられる。おそらく先例をふまえた形で軍法や陣立て、軍勢の構成、派遣軍と留守勢の人事、軍旗の由緒などをまとめた明和3年(1766)3月13日付の史料(№0836―01~05・0837・0855、主に竪帳)を収めた。これについては、対応関係は不明だがもう1組確認できる(№0841、0840、0856、0839、0544、0861、0838、主に横帳)。また、翌4年9月付の史料は、近隣への出兵を想定したより具体的な体制の検討に関するものか(№0836―06・07、0885、0893、0894)。

海岸警備 (41点)

 ここには江戸後期の外国船来航や開国に伴う海岸警備に関する史料を収めた。
 【文化年間】の「蝦夷松前役越後岩船郡役豫備」(№0888)は30冊からなる、文化5年(1808)にまとめられたロシア船の来航に備えた蝦夷松前への派兵や、預地のあった越後岩船郡の海岸警備の計画書である。奥羽諸藩の蝦夷地派兵などの事態をふまえて作成された。これに伴って会津藩の蝦夷地派兵をめぐる史料も作成されている(№0887・0892)。蝦夷地図(№1967)なども含め、米沢藩は蝦夷地に関する情報を会津藩から得ていた。
 【嘉永年間】の「嘉永1年5月7日出張面附」(№0850)・「嘉永1異船警備記」(№0889)は、嘉永1年(1848)4~5月に日本海沿岸に外国船が出現したことに対する対応の記録である。
 嘉永6年の「御出馬押前御行列」(№0844)は同年のアメリカのペリー、ロシアのプチャーチンらの来航をふまえたもの、「続異船警備記附文久3江戸警備 完」(№0890)は越後に加えて江戸警備なども含まれており、開国をめぐる情勢への対応を受けて作成されたものとみられる。

家臣団統制(394点)

 ここには、上杉家家臣団の由緒や勤役、分限帳、諸役職の任免に関する記録や先例集などを収めた。後述の【藩政―御記録方】で編纂、管理されていた冊子類が多く含まれている。

先祖書・勤書 (191点)

 先祖書・勤書は藩士が藩に対して、一定期間の父祖を含めた勤務状況について報告したものを、藩士の所属単位でまとめたものである。定勝以来を対象とした元文5年(1740)の先祖書(№0967)、元文5年以来の天明5年(1785)の先祖書・勤書(№0968・0970)、天明5年以来の文化14年(1817)の先祖書(№0979)、文化14年以来の弘化2年(1845)の勤書(№0981)と、4度にわたって米沢藩で作成された。
 【年代未詳等】には、明和6年(1769)に作成された家臣団構成の1つ「組外御扶持方」の成立、変遷などの書き上げである「組外御扶持方由緒書古実書上申帳」(№0970)や、上級家臣や藩医など、特定の家の由緒をまとめたもの(№0969・0972・0974)などを収めた。

分限帳 (49点)

 分限帳は、上杉氏・米沢藩の家臣団のリストである。米沢藩で制作されるようになると、名前に所属・禄高などが記録されるようになる。ここには内容の時代順に編成した。「上杉文書」に収められるほかにも、逐一挙げないが、市立米沢図書館にも別の年次に制作された分限帳が所蔵されている。
 はじめに【越後・会津時代】として、ここには戦国期以後の越後・会津時代の家臣団を収めたが、一部江戸前期までを対象とするものもある。そのほとんどが江戸後期の写本で、「御記録所」印が押されたものが3分の2に及ぶ((12))。 「文禄3甲午歳定納員数目録 上」(№1087)は、いわゆる「文禄3年定納員数目録」で越後時代の景勝家臣団の基本史料として周知である。「越後分限帳」写(№1085)は慶長2年(1597)の分限帳を基調に制作されたことが指摘されている((13))。「上田士籍 附3扶持方新手明100挺」写(№1082)は景勝の実家に当たる上田長尾氏の家臣団リストである。
 慶長5年(1600)の直江兼続家臣および配下の上杉氏家臣のリストが3点ある。「慶長5年直江支配」(№1088)は、それとともに慶長9年(1604)の中級家臣のリストも載せている。「慶長5直江支配分限帳」写(№1089)は、№1088の前半部分の写しである。「直江支配長井郡 分限帳 全」写(№0944)も同様のリストで、江戸中期の写本である。
 続けてまとめた【江戸前期】の内容を持つ分限帳は、いずれも後代の写本である。「分限帳」の名を冠するものは上級家臣の侍組以下、家臣団を広く対象としたものとみられる(№0945・0948・0949・0951〜0953)。一方で「差紙帳」とされるものは大小姓以下の一部を対象としている(№0983・0984)。侍組に属した色部隆長の書写した№0951以外には、「御記録所」印が押されている。藩の公務として保管されたことがうかがえる。また隆長は、家伝文書を「古案記録草案」(市立米沢図書館蔵)としてまとめ、戦国期の実態を示す「色部氏年中行事」(№1040)を書写したことでも知られる。
 【江戸中期】は「延享2年 分限帳」2冊(№0957)が全容を示すが、上巻のみの№0956がその正本とみられる。「家中分限帳」(№0955)は享保10年(1725)に来訪した国目付に提出した分の控えとみられている。また「家中分限帳」(№0965)は江戸後期におけるその写しとみられる。家臣団全体ではなく一部家臣のものがみられる。「御記録所」印が№0954〜0956・0958・0986に捺されている。
 【江戸後期】については、寛政9年(1797)・文化6年(1809)・慶応1年(1865)のものが家臣団の全容を示すとみられる(№0960・0961・0963)。「3輯一覧」(№0523)・「文化10年帳 上」(№0610)・「役人調書」(№0962)のように藩士の序列や任免に関する記録も作られている。 【近代】には、幕末以来の軍制改革によって構築された新たな軍事編成を反映した明治2年(1869)の分限帳(№0964)が作成されている。また桜幸盛の作成による与板組の分限帳(№0966)が含まれる。

諸役任免一覧 (73点)

 御記録方(後に御記録所)が編纂した、藩内の主要な役職の歴代補任者一覧である。次項に収めた先例集の1種だが、点数が多く特徴的なため、別に立項した。「御役成勤式」(№0522)は宝暦年間(1750年代)までの記載で、役職就任時「御役成」の儀式に加え、職掌が比較的詳しく記載されている。「代徭集」(№0515)は横半帳で各職の見出し索引があり、一部は幕末期まで記載がある((14))。「御役成勤式」に比べて記載範囲はより下級の役人の一部を含む。
 「紹襲録」(№0519)は役職ごとの概要と変遷、役職の就任者とその前職・後職、就任期間、禄高などが記されている。嘉永6年(1853)に完成し、その後は明治初期まで追記されている。

先例 (66点)

 家臣団の隠居・家督、婚姻などに関する先例集と、先例に関する疑義照会などの関連記録を収めた。【済口】は史料用語で、明確な定義づけは現状では困難だが、事務処理の結果を示すと考えられる。「済口手引」「済口簡明」「済口雑例」といった表題で、何度か先例集の編纂が行われたことがわかる。表紙などに「物書所」の記載が見られ、奉行付物書の作成であろう。
 【五匹・六義】は、御記録所で作成された先例集で、文化2年(1805)以降分がまとまって伝来する。このほかに、物書所や御記録所、個人などが作成した様々な先例集があり、【手控】として一括した。

江戸番転 (11点)

 【江戸番転】は、藩士が江戸藩邸での勤番(番手)を勤めることをいう。中級藩士に関して、江戸番転の交代を記した名簿類である。

俸禄・手当 (4点)

 家臣への俸禄の付与や加増、賞与に関する文書4点を収めた。

藩政(578点)

 藩庁(役所)の文書と、藩士が職務に伴い作成、授受した文書を収めた。基本的には職制と職掌によって、上位から下位、家政に準じる職務から行政や周縁的な職務の順で編成した。編成と以下の解説については、「御役成勤式」(№0522)と、馬場頼綱編「遺穂集((15))」などに基づき、江戸時代中期から後期の職制と職掌を考慮し、以下の解説に反映した((16))。

御日帳 (19点)

 御日帳は藩の公式日記として、御右筆所の御日帳方で作成された。主な記載内容は、儀礼や他所出といった藩主の行動、家臣からの献上などに加え、在府中であれば幕府との交渉や、諸大名との交際などである。原本のほか、写や御日帳の【目録】を含む。なお、明治元年分以降は家臣に関する記載が増えるなど記載内容に変化があるため、【幕末維新期―明治元年―編纂物】に収めた。

奉行 (101点)

 奉行は他藩の国家老に相当し、江戸時代初期以外は基本的に3名で、藩政全体を統括した。下僚として役所役や奉行付物書が実務を担った。元来は奉行経験者の各家に伝来した文書と考えられ、宝暦年間の長尾景風の日帳(日記)や、宝暦から安永期の奉行と重臣間の状留、同時期の千坂高敦宛の上杉勝承書状が比較的まとまっている。慶長記の直江兼続の書状留を含む。国許の奉行と江戸家老間の用状留、日記、寄合記録などは、参加者のうち上位者、または受給者や作成者に基づいて編成した。
 史料の名称と機能、主題に応じて、【日帳類】、【状留】、【触状留】、【寛政改革】、【千坂家宛書状】、そのほかの【書状類】からなる。なお、奉行は金銭の出納や借入にも関わったが、この関連史料は後述の【藩政―勘定関係】に収めた。

江戸家老 (62点)

 江戸家老は当初は1人で定府であったが、享保4年(1719)以降は2名となり、4年または2年詰めの交代制となった。江戸時代前期の江戸家老・千坂高治に宛てた上杉定勝と綱勝の書状が56通と、大部分を占める。江戸家老の下僚が作成したと考えられるため、【日記類】として江戸藩邸の略日記2冊と、桜田邸の役所の日記1冊を収めた。

城代・侍頭・役屋将 (9点)

 上級藩士である侍組から任命された重職の関連文書を便宜的に一括した。城代は1名で、米沢城本丸にあった御堂をはじめ、城内の取り締まりにあたった。侍頭は番方の役職であり、侍組(侍衆ともいう、100家弱)を5つの組に分け、1組(1隊)ごとの大将を指す。役屋将は領内の支城(役屋)の城代である。

中之間 (18点)

 米沢城本丸御殿の中之間は、最上位の座敷である表御座の間の手前に位置する、表向きの座敷を指す。中之間年寄は6人おり、六人年寄、六老とも呼ばれ、この座敷に詰めた。その職掌は奉行のもとで政事にあたり、家中の惣横目と、「御不断御勝手向」(財政)の「総元締」、役職任命時の候補者の入札も担った。中之間年寄の公務日記「中之間日帳」を中心に、中之間詰の中級藩士を束ねた番頭の日記も便宜的に一括した。

御右筆所 (13点)

 御右筆所は中之間に隣接した一画にあり、藩主書状の作成や文書の管理、先例の調査にあたった。筆頭のもと、吟味方、日帳方、御記録方(次項を参照)といった部局がおかれた。文化~安政期の日記9冊などが伝来する。

御記録方 (77点)

 御記録方は、「歴代年譜」をはじめ、諸記録の編纂と先例調査、重要文書の保(17)管にあたった部署である。上杉鷹山による藩政改革にも深く関与し、安永7年(1778)には、御右筆所の一部局から独立し、「御記録所」として専用の執務空間が与えられた。【日記類】をはじめ、上杉家の系図や鷹山時代の藩政改革に関わる【意見書・答書類】、そのほかの【手控】がある。
 なお、御記録所が収集、編纂した記録や、そこで保管されていたと考えられる書類はほかにも数多くあり、「上杉文書」の中核をなしている。先行研究や「御記録所」の蔵書印、御記録方の寺島貞経の識語などが判断の手掛かりなる。特に【上杉家―古文書集/歴代年譜/先例集】の編纂、【家臣団統制―先祖書・勤書/分限帳/諸役任免一覧/先例】の清書や編纂、【法制】の法令集の編纂と書写を担い、【法制―御呵御免】においても主要な役割を果たした。

絵図方 (3点)

 絵図の作成部局であり、岩瀬家が担った時期が多い。絵図の目録2冊と、絵図の調整に関する文書が含まれる。【上杉家―幕府―巡見使・国目付】にも関連史料がある。第4分冊絵図編も参照。

郷村関係 (62点)

 郷村支配に関わる、郡代、郡奉行、代官、郷村出役関係の史料を収めた。1点ごとに出所や役職を究明することは困難であり、主題別に編成した。なお、「郷村手引」(№0460)は全文が翻刻されている((18))。【貢租】は、江戸時代前期の内容を多く含む。【訴訟】は主に享保12年(1727)の、米売払の輸送方法をめぐる赤湯村問屋と、砂塚村、高梨村などが代官所に訴えた1件書類を貼り継いだもの、【免許百姓】は、由緒や、村役人勤、献金などの功績により特権を認められた百姓の由緒書である。【手控】には、林政を含めそのほかの史料を便宜的に一括した。

御預所 (71点)

 寛文4年(1664)の半知により、屋代郷は幕府領となったが、その支配は幕府から米沢藩に任され、預地となった。米沢藩の預地は、元禄2年(1689)から寛保2年(1742)の中断を経て、文久3年(1863)に私領同様扱いとなるまで継続した。御預所役所が置かれ、御預所奉行以下の支配機構があった。
 本項の史料は、元禄2年の【御預所廃止】に伴う、幕府領と米沢藩領との飛地に関する諸貢租の調整や地替に関する帳面と村方の願書が61点とまとまっている。御預所代官・室高6右衛門や舟田善右衛門のほか、藩領側の代官・小嶋次左衛門も関わって調整は進められた。絵図編の「預所絵図」もあわせてご参照いただきたい。その他は、【幕藩関係】に収めた。
 なお、幕末期の屋代郷騒動関係は、後述の【幕末維新期―文久・元治年間】に一括した他、【諸家文書―斉藤家】にも関連史料が含まれる。また【諸家文書― 村方/貼継・貼込】には、屋代郷の村方文書が多数伝来する。

町奉行 (17点)

 正徳4年(1714)編纂の町奉行所の先例集「当官記事」(№0525)13冊が大部分を占める。

勘定関係 (22点)

 金銭の出納や借入といった勘定方(勘定奉行)扱いの業務関連の文書を収めた。享保年間に奉行中條清資の量(担当)により進められた御貯金1件の関連史料が7点とまとまっている。勘定方の業務外だが、点数が少ないため、借金関係や青荢取引などに関与する京都屋敷関係と、現金出納にあたる御金蔵関係もここに収めた。

寺社・宗門関係 (15点)

 寺社奉行と宗門奉行の関連で、両職は兼帯の場合も多かったため統合した。【寺社】には、安政2年(1857)の亀岡村大聖寺の昇進1件の文書4点、【宗門改】には領内の総人口を記した元禄期の「宗門改人数目録」(№0664)6点がある。

藩校 (4点)

 藩校興譲館について、上杉鷹山のもとで設置(再興)された際の記録と、行事関連がわずかに伝来している。

意見書 (16点)

 鷹山時代の重臣・竹俣当綱と莅戸善政による意見書の写本をはじめ、米価安定や備籾に関する近世後期のものが多い。

孝子褒賞 (54点)

 領内の善行者に対する褒賞関係で、「孝子伝」(№0757・0763ほか)42冊と、【幕府へ書上】、状ものの【申渡書】に編成した。

森平右衛門一件 (15点)

 宝暦13年(1763)、森平右衛門利真が藩政を専断した罪に問われ、竹俣当綱により殺害された事件の関連史料である。「宝暦文書」として2巻の巻子に貼り継がれた書状類(口絵7ページ参照)は、ほとんどが『山形県史資料編16近世史料1』に翻刻されている。ほかに、同事件に関する編纂物の2冊を含む。

法制 (527点)

 江戸時代中期以降に編纂された法令集と判例集を中心に、裁判の結果を記した裁許状とその編纂物、赦免や減刑に関する帳面類が大部分を占める。ほとんどが、奉行のもとで先例調査にあたった御役所(役所役)と、御記録方で作成、編纂された史料である。

幕法 (六二点)

 幕府法に関する法令集を収めた。「将軍家令條」(№0432~0435)は、「記室要録」(№0549)によれば、明和七年(一七七〇)に御記録方が清書を命じられ、翌年に完成し奉行詰の間に置かれた。本書は以後も書き継がれたものであろう。「憲法部類」(№0437)は、享保元年(一七一六)から安永五年(一七七六)までの幕府法令を石野広中が一〇巻に編集したものである。上記以外の法令や触達の留は【触達留】として便宜的に一括した。

幕法 (62点)

 幕府法に関する法令集を収めた。「将軍家令條」(№0432~0435)は、「記室要録」(№0549)によれば、明和7年(1770)に御記録方が清書を命じられ、翌年に完成し奉行詰の間に置かれた。本書は以後も書き継がれたものであろう。「憲法部類」(№0437)は、享保1年(1716)から安永5年(1776)までの幕府法令を石野広中が10巻に編集したものである。上記以外の法令や触達の留は【触達留】として便宜的に一括した。

藩法 (174点)

 「御代々御式目」は歴代藩主ごとに編纂された法令集で、複数組が伝来する。「大令策」(№0457)は、大部分に国分威胤の蔵書である旨の記載や、国分家歴代の役職などが補記されており、国分家旧蔵の私的な編纂物であろう。
 【条目】は、藩主名または奉行連署により出された箇条書きの法令・規則で、江戸時代前期のものが多い。【触状・触留】は、主に藩内の触達とその手控えで、冊子体のものを先に掲出した。

判例集(90点)

 判例を罪科ごとに分類した編纂物である。「御呵附引合」(№0496)10冊は、寛永12年(1635)以降の判例が収録されている。天明3年(1783)に成立し、文化14年(1817)まで追記がある。「中典類聚」(№0483)66冊は、寛政3年(1791)から天保8年(1837)までの判例を収録し((20))、「御裁許鈔」(№0487)7冊は、天保3年から慶応3年(1867)までを対象とする。
 「博奕鈔」(№0513)は、寛政4年(1792)から安政2年(1855)まで、年代ごとの博打の摘発事件について収録する。他に№0486があり、1冊だけのため便宜的に一括した。

裁許 (39点)

 刑事裁判の判決を記した裁許書の留書や写しで、御記録方に伝来した書類が中心となっている。「御済口留」(№0495―01~04)は文化3~文政1年(1806~18)の御記録方による裁許書の控えで、その写が多数挟み込まれている。「御裁許留」(№0495―05~16)も同様の史料で、文政1年(1818)以降が伝来する。表題が異なるものの、一連の記録であろう。【裁許書】は、状ものの原本または控えである。

御呵御免 (162点)

 改易や欠所、領内外の追放、閉門や遠慮、慎といった刑罰に処された場合、当人または子孫が、ある程度の期間を経て赦免または減刑されることがあり、これを史料上、「御呵御免」と称した。「御呵御免」は、上杉謙信の命日に関連する毎年3月や、上杉家の慶事にあわせて行われた。奉行のもとで実務を担った御役所と、先例や該当者の調査などにあたった御記録方が作成した文書が大部分を占める。以下、史料用語と内容を勘案し、項目を設定した。
 【先例集】は、寛政1年(1789)から天保2年(1831)頃の先例を罪科別に分類した「呵御免者早引」(№0510)などがある。
 【御免伺】は、「御呵御免」の対象者を選定する段階の文書のようで、御記録方と御役所の両系統の分が伝来する。毎年1冊の場合が多いものの、複数年を一括する場合(№1007―06~09)もある。史料は年代順に配列した。
 【御免掛】については未詳な点も多いが、御呵(処罰)の対象者のうち、減刑や赦免の対象となることを意味する語のようである。先例をまとめた【御免掛事例】のうち、「御呵者御免懸」(№0497)は、御記録方の片山紀兵衛が、「御免掛」の先例調査の効率化のため、天明3年(1783)に編纂した身分格式別の先例集である。「御呵御免懸者書抜帳」(№1003)は、宝暦6年(1756)以降の事例が判明する。【書上】は、主に御役所で作成された関連書類を収めた。【御免申渡】は、「御阿御免」の実行段階の申渡書の下書等で、当番の奉行の量(担当)であった。

幕末維新期(1,479点)

 基本的に文久元年(一八六一)以降の史料を収めた。重臣間の書状類の原本と、文久上洛や戊辰戦争など重要な出来事に関する編纂物が多い。一括関係などにより、それ以前(嘉永~安政年間)の史料が数点含まれる。
 なお、一連の史料の場合は、年代で分断することはせず、藩政、法制などに一括して収めた。幕末維新期の史料は、後述の【伊佐早謙関係―合綴史料集】や、【諸家文書―斉藤家】にも多数含まれる。

文久・元治年間 (223点)

 文久年間に入ると、米沢藩は幕末の全国的な情勢の変化に大きく関わることとなる。【文久上洛】では、文久3年(1863)、将軍徳川家茂に供奉して上杉斉憲が上洛した関係で、当時の書類を編纂した「御上洛量帳」(№0270)45冊をはじめ、御日帳や重臣の【日記類】、近代に編纂された「曦山公上洛記」(№0268)からなる。
 【屋代郷】は、幕府からの預地であった同郷が、文久3年に上杉家の私領同様扱いが認められた際、村方が仙台藩に撤回を訴え出た騒動の関連史料である。恐らく伊佐早謙のもとで貼り継がれ、「文久3年屋代郷事件蟷斧」乾坤の2巻(№0826)として伝来した。なお、屋代郷の村方文書については、後述の【諸家文書―村方―屋代郷等】も参照いただきたい。
 【貼込帳】(口絵7~9ページ、解体については41ページ解題参照)のうち、 №1189と№1533はいずれも無題で、老中奉書の封紙を台紙にした貼込帳となっている(以下、貼り込まれていた書状類について述べる)。№1189は安政3年(1856)から慶応2年(1866)、№1533は嘉永6年(1853)から元治1年(1864)の書状などである。いずれも、文久・元治年間の主に江戸と米沢の重臣間の書状が多く重要な史料だが、マイクロフィルム版には未収録で、今回の調査により初めて目録が公表された。そのほか、【手控】には同時期の冊子体の史料を、【書状類】には状ものを便宜的に一括した。

慶応元年~3年 (36点)

 ほとんどが慶応2年(1866)に世子茂憲が藩主斉憲の名代として上洛した際の関連史料である。「茂憲公御名代御上洛記」(№0276)のほか、形態に応じて、冊子体は【日記・諸記録】、状ものは【書状類】として編成した。

明治元年 (902点)

 明治元年(1868)の、大部分が戊辰戦争に関する史料である。なお、改元は慶応4年9月8日だが、本目録では基本的に明治元年に表記を統一した(史料原本の記載を転記した場合を除く)。同じ書状類であっても、史料の伝来した形態に応じて、状ものと【貼継・貼込】に分かれるため、利用に際しては留意して頂きたい。
 状ものは、米沢藩の政治的な立場の変化を考慮しつつ、便宜的に以下の通りに区分した。奥羽における戊辰戦争の開戦以前の【1月~4月】、奥羽(越)列藩同盟の結成と、同盟側で戦った【閏4月~8月】、新政府への降伏後の【9月~12月】である。なお、第3項目以下について、史料番号順に配列した。全史料を月日順に配列し直すことは、困難なためである。
 【貼継・貼込】は、伊佐早謙が与えたと思しき外題に従い、「戊辰文書」(№1330)、「残存戊辰文書」(№1346)、「残存戊辰文書続集」(№1345)、【外題無し】に区分した。重要な文書は、前段の状ものよりも【貼継・貼込】に多く含まれる。伊佐早謙による選別の結果と考えられ、主な文書は『米沢藩戊辰文書』として刊行されている((21))。
 【日記・手控】は日記のほか、京都藩邸からの報告書類などを含む。
 【戊辰戦争時軍制】は、マイクロフィルム版の目録にあわせて別に立項した。陣中での命令、指令類、法度や心得、各地の人数配置などである。
 【編纂物】は、明治元年の戊辰戦争期を主題としたもので、編纂の完了は明治2年以降と思われる。【御日帳】と【東京御帳】は明治2年以降を含み、抜粋して活字化されている((22))。「機事叢録」(№1352)は米沢に届いた重要書類を発信地別にまとめたもので、「奉行詰之間」印があり、明治初期の編纂であろう。「戊辰軍記」(№1338)は、国会図書館所蔵の写本によれば、軍事編纂方により明治4年に完成した。稿本や関係すると思われる書類を続いて配列した。
 【戊辰事情等】は、類似の表題のものを便宜的に一括しており、各史料の成立事情や編纂者を考慮して編成したものではない。
 【上杉史料】は堀尾重興や甘粕継成などの日記の写本で、「本郷上杉氏」の罫紙を使用している。近代上杉家における年譜編纂事業の一環であろう。慶応2年(1866)の上洛に関する、堀尾重興の「御上洛日記」(№0626)が8冊含まれる。以上の編纂物については、後述の 【伊佐早謙関係―編著書】との関連性が考えられる。

明治2年~4年 (291点)

 明治2年から明治4年6月の廃藩置県までの文書を、年ごとに分けて編成した上で、基本的に史料番号順に配列した。【明治2年】分は224点と最も多く、米沢と東京、会津間の書状や意見書、報告書などがある。【明治3年】と【明治4年】については、点数が限られ、新政府からの通達や、新政府宛の伺、藩内での通達といた公的書類の控が中心となっている。

廃藩置県以降 (27点)

 明治4年の廃藩置県以降、大正期までの史料を含めて便宜的に一括した。廃藩以降の史料が極めて限定的である点は、本史料群の特徴と言えよう。廃藩置県により成立した【米沢県・置賜県】の書類は2点に過ぎない。
 【上杉伯爵家】は、旧藩時代の藩士からの借米関係の清算や、上杉家内部の法規としての家範関係などの書類である。戊辰戦争以降の戦没者祭祀の史料に関しても、実施・編纂主体に関わらず、便宜的にここに一括した。
 【米沢義社】は、廃藩置県に際し、当主茂憲が米沢の士族に下賜した17万両余の資産の管理、運用のために結成された、相互扶助組織である。関連する資金の勘定帳と、米沢製糸場の設置資金を巡る売籾騒動関連の帳簿や記録がわずかに伝来する。

伊佐早謙関係(1,517点)

 伊佐早謙(一八五八~一九三〇)の編著書や、編纂や収集した史料集、史料採訪の記録などを一括した。マイクロフィルム版の目録では、Ⅹ其他の1伊佐早謙氏編纂物に収録されていた史料が中心である。
 伊佐早は、上杉家における歴史編纂とは別に、大正四年(一九一五)刊行の『編年西村山郡史』の監修をはじめ、大正九年の『山形県史』の編纂主任を務めるなど、自治体史の編纂に従事、協力した。大正二年には米沢市史の編纂も委嘱されたものの、同六年の米沢大火により原稿類が類焼し、出版は実現しなかった。本項の史料は伊佐早の調査研究や史料収集、自治体史等とのかかわりを如実に反映している。
 以下、本項目には、伊佐早の名前が明記されているものや、ほかの史料で彼の関与が判明した史料に加え、題名などに伊佐早の号である「読史堂」や「樅軒」が含まれるものも収めた。
 なお、伊佐早の収集や筆写、編纂した史料であっても、本項以外に収めた文書がある。例えば、上杉家の葬儀に関する記録(№0232)を、伊佐早が後年に収集した場合は、江戸時代段階の主題を重視し【上杉家―儀礼・儀式―葬儀】に収めた。伊佐早の収集や筆写などに関する情報については、備考欄に記した。

編著書 (151点)

 伊佐早の編著書、または上杉氏編纂所で編纂された成果物であることが一定程度、明確なものを収めた。但し、史料集については、次項に分けた。
 【上杉家記】は上杉憲房から4代藩主綱憲までの年譜(№0043・0044)(23)と、明治31年時点の【稿本】(№0045、口絵10ページ)がある。後者には「上杉氏編纂所」の原稿用紙を使用しており、上杉家からの委嘱業務として伊佐早が編纂にあたったことがわかる。「戊辰紀事」(№1337・1334)は、上杉家に納められたのは昭和3年(1928)だが、昭和1年刊行の『編年西村山郡史』の典拠史料に挙げられており、同年には成立していたことが判明する。
 【伝記】は、上杉謙信、景勝、鷹山に関するもので、「鷹山公実録稿」(№0074)が明治19年(1886)と最も早く成立している。
 「米沢文伝」(№1664)は、歴代米沢藩主と、直江兼続や雲井龍雄といった藩士の漢詩集である。【論考等】は、論文2点と、米沢市史の草稿「自著雑稿」(№1495)3冊と講義録からなる。

編纂史料集(136点)

 伊佐早のもとで採録され、一定の意図や秩序をもって編集し、史料を書写、配列した史料集を収めた。史料を書写した冊子で、原本はほぼ含まれない。中世から近世、近代へと、主に収録史料の時代順に配列した。
 「編年文書」51冊(№1488~1491)は、仁平3年(1153)から安永2年(1773)まで、史料番号順ではなく、巻数(収録年代)順に配列した。大正9年刊行の旧版『山形県史』では「編年文書」を典拠とする記事が多数確認できる。
 「奥羽文書纂」(№1440~1442)の続と別集を含め30冊については、主に中世文書が収録されている。伊佐早の編纂か否かは、判然としない。しかし、一部に「上杉氏編纂所」の原稿用紙を用いており、その可能性が高いと考えられる。明治33年の伊佐早編「置賜史」(山形大学中央図書館蔵)では、「奥羽文書纂」を典拠史料として記載している。
 「読史堂史料」(№1471)20冊は、一部に「米沢市史編纂用紙」を使用する。ほとんどが江戸時代の史料の写本で、後半は米沢・最上・庄内と山形県内の地域別に分類されている。『米沢市史』や『山形県史』の編纂業務との関連性が指摘できよう。
 「読史余纂」(№1486)10冊は、上杉、奥羽関連の中世文書を楷書で書写したもので、越後や東北各地の所蔵者や出典の記載がある。うち6冊には「史料雑纂」の内題がある。巻9の末尾に明治13年8月に伊佐早謙が書写した旨の記載があり、伊佐早による写本と判明する。
 「史料」(№1487)13冊は、江戸時代中期から明治初期の記録類の写で、「米沢市史編纂用紙」を用いたものが多く、同市史編纂事業の一環であろう。

合綴史料集 (1,119点)

 史料の原本や写本、伊佐早編著の原稿類などの冊子類を合綴し、表紙を付したものを収めた。合綴史料集の表紙と、合綴されている史料のうち原本については、1点として採録した((24))。マイクロフィルム版目録では外題のみの採録であったが、今回の調査により、どのような史料が収められているか、初めて詳細が明らかになった。藩政や幕末維新期に関する史料の原本も多く含まれるため、利用に際しては、本項の史料にも目配りをしていただきたい。
 「鶏肋前集」(№1455)23冊は、主に安永1年(1772)から天保年間(1830年代)までの冊子体の原本がほとんどで、上杉家の家政と米沢藩の藩政に関する文書類が中心である。
 「鶏肋後集」(№1456)38冊は、主に文久2年(1862)から明治2年(1869)までで、こちらも原本が中心となっている。年ごとの記事をまとめた冊子(○○年記事として採録)が散見され、斉憲の年譜編纂事業との関連性が考えられる。
 「鶏肋集」(№1457)23冊は、江戸後期の書類や、大正10年代までの伊佐早宛ての書簡や書類などの原本が中心である。明治中期以降の書類が多く、「鶏肋前集」、「鶏肋後集」よりも後に編綴されたと考えられる。
 「樅軒秘笈」(№1464~1470)19冊は、主に江戸中期から明治初期の諸記録で、原本と写本が混在している。他の合綴史料集に比べて、米沢・置賜以外の東北地方に関する史料が多く含まれる。
 「読史堂叢書」(№1472~1494)は130冊と最も冊数が多く、主に寛政年間から明治初期までの諸記録で、原本と近代の写本が混在する。また、大正期から昭和初期にかけて、伊佐早のもとに集積した書類の原本がある。写本は「上杉氏編纂所」や「米沢市史編纂用紙」の原稿用紙を用いたものが含まれる。
 「樅軒雑集」(№1494)3冊は、ほとんどが写本と、大正期から昭和初期の伊佐早謙宛の葉書、書簡類の原本である。写本の内容は、主に安土桃山時代から幕末期にかけて、上杉家、米沢藩関係が中心となっている。
 「匯纂」(№1450)13冊の中身は、江戸中期から明治4年まで、米沢藩関係の雑多な記録類の原本がほとんどである。「匯纂」に関しては、伊佐早が収集、編纂にあたった痕跡(書き込みや原稿用紙など)が確認できず、彼による史料集か否かは検討の余地があるが、便宜的にここに収めた。表紙題には巻1~16まであるが、巻3、4、14を欠く。史料番号順ではなく、表紙記載の巻順に配列した。【文書集】には、その他の合綴の史料集を便宜的に一括した。

斉憲年譜編纂 (10点)

 明治24年(1891)から同31年(1898)まで、上杉斉憲の年譜編纂が行われた際の編纂局の日誌7冊である。伊佐早は編纂局の主務を務め、御手伝として立岩則親が参加した。編纂業務のほか、関連史料の書写や書籍の購入、上杉家関係の書画や宝物類などの調査も行った様子が判明する。

史料採訪 (28点)

 主に明治30年代に伊佐早が山形県内はじめ東北各地と、北陸、関東などの史料所蔵者を訪ね、採録した【古文書集】21点と【採訪目録】7冊からなる。

筆写史料 (46点)

 伊佐早が筆写または校閲したことが明確な、単体または一群の史料の写本を便宜的に一括した。なお、全点の筆跡の確認、判断は困難であり、同様の写本は「西條夜交 江口 安部系図」写(№0919)など、他の項目にも散見される。

暦 (27点)

 「読史堂存暦」(№1483)の外題を付した、宝永2年(1705)から明治1年(1867)の木版の伊勢暦である。

典籍 (588点)

 上杉家と家臣団、米沢琉球関係の内容の史料は、本史料群の特徴を示すため、別に項目を立てた。また、系図は点数が多いため、一枚刷りの見立て番付類と暦は形態が異なるため、特徴的な史料として立項した。そのほかについては、『国書総目録』分類表((25))により、主題に基づいて編成した。

上杉家 (27点)

 米沢藩内で編纂された主なものは既述の【上杉家―編纂物】に収め、本項には一般に流布した【軍記】と家譜を含む【伝記】の類を収めた。

家臣団 (212点)

 上杉家家臣や近代の米沢士族の編著書、家臣団に関する伝記、系図などを収めた。家臣団の【編著書】として、【莅戸善政】による教訓書の写本類や(【藩政|意見書】も参照)、【年表・参考書】、和歌や漢詩といった【文芸他】がある。【武門要鑑抄関連】は、越後流の兵学に関する安永2年(1773)成立の滋野正相「参考要門管窺抄」関連がまとまっている。【伝記】には、家譜や略系譜の類も収めた。
 【系図】に関しては、上杉氏家臣のものを本項にまとめ、内容題に所属する組や家格、記載範囲を採録した。それぞれの成立時期や、編纂の意図、藩による系図編纂の有無などについては、今後の課題である。

米沢関係 (36点)

 米沢藩政の記録や、上杉鷹山の師匠の一人である細井平洲の著作などをまとめた。【一般】的な書物のほか、【赤穂事件】関係は、特に米沢藩に関係する重大事件のため、ここに収めた。

系図 (42点)

 上杉家とその家臣団を除く、他の大名家などの系図類を収めた。主に徳川家に関する【将軍家】と、旗本、他藩重臣などを含む【他大名家等】、複数の家に関する【系図集】に区分した。
 総記・学問・文学、仏教、歴史、政治・法制・経済、教育、暦、芸術・諸芸、武学・武術に関しては、上述の通り『国書総目録』の「分類」項目表にそって立項し、区分した。史料点数に応じて、適宜、類似の項目は統合した。なお、武学・武術のうち、【兵学】に関して、伝授を伴う目録・伝書類(主に巻子本)については、後述の【諸家文書―武芸書】に収めた。

琉球 (5点)

 本史料群の特徴の一つを示すものであり、特に立項した。大正13年、伊佐早謙は沖縄県令を務めた上杉茂憲の年譜編纂業務の一環として、沖縄を訪れ、史料の収集に努めており、その成果物と考えられる。

漢籍 (4点)

 「上杉文書」中の漢籍は、「范文正公集」の写本(№1726、1730)4冊だけである。漢籍の少なさは本史料群の特徴と言えよう。

一枚刷 (52点)

 主に木版一枚刷の番付や絵図などを貼り継いだもの3巻分で、貼紙の記載や「林泉文庫」の蔵書印から、伊佐早謙が収集したものと推定される。大部分が江戸時代後期の見立て番付である。「諸番附類」天・地(№1756)の一部は、裏に文書を補強紙として使用している。

諸家文書  (885点)

 米沢藩士の家や、領内外の有力町人や村方役人の家などから、主に近代になって流入した可能性が高い史料について、出所(伝来した家)が明確な場合は家分けとした。そのほかは武家や町方、村方の別、主題や伝来した形態に応じて編成した。

色部家 (64点)

 色部氏は、平姓秩父氏の一族で、鎌倉初期に越後国小泉庄色部条に地頭職を得た領主で、戦国期には越後の有力国衆であった。謙信・景勝期に上杉氏の家中に編成され、上杉氏の会津、米沢への移封に従い、米沢藩では上級家臣の侍組に位置付けられた。ここにはその色部家関連史料を収めた。
 「色部文書」5巻(№1063、口絵10ページ)は、建長年間から永禄年間の文書を収め、『新潟県史 資料編4 中世2』に翻刻されている。「色部氏年中行事永禄年中 全」(№1040)は、戦国期の色部氏の年中行事を記す故実書で、宝暦年間(1751~64)の写本とみられる((26))。色部氏の文書は、新潟県立歴史博物館が収蔵する重要文化財「越後文書宝翰集」、米沢市上杉博物館収蔵の「色部氏古文書集」のほか、各所に散在している。

毛利安田家 (124点)

 毛利安田氏は、鎌倉時代に越後佐橋庄に入部した毛利氏が、南北朝期に獲得した隣接する鵜河庄安田条を領した庶子憲朝に始まる。15世紀後半には越後守護上杉氏の政権に参加し、以後長尾上杉氏とも密接な関係を維持した。上杉景勝の移封に伴って米沢へ移り、侍組に編成された。江戸時代前期は安田氏、明和8年(1771)以降は本姓の毛利氏を称した。ここには、その毛利安田家当主宛の藩主からの書状(藩主御内書)を収めた。
 4代綱憲から12代斉憲までの藩主から、清元から業広までの毛利安田家当主に宛てられている。内容はほとんどが年頭祝儀太刀一腰の贈答への礼状で、ほかに藩主の家督、入部の祝儀への礼状が若干ある。これらは【幕末維新期―明治1年】の「残存戊辰文書」、「残存戊辰文書続集」の貼込帳の台紙として使われていたものである。今回の整理事業で解体し、ほとんどが毛利安田家当主宛であることから「毛利安田家文書」としてまとめた。なお、典籍や絵図の一部(№1860、1889)などにも、同家旧蔵と思われる史料が含まれる。

斉藤家 (155点)

 斉藤家は侍組に属した上級藩士である。糠野目役屋将や戊辰戦争時の参謀を務めた斉藤篤信の関係史料が大部分を占め、その先代庸信の日記類を含む。維新後、篤信は教部省に出仕し、旧米沢城下の第10大区の区長、初代の山形県師範学校長、文部省御用係や学習院教授補などを歴任した。幕末期は達書が、明治期に入ると「維新手翰集」(№1380)として巻子装に仕立てられた書簡類が多い。
 なお、先述の 【伊佐早謙関係―合綴史料集】のうち、「鶏肋後集」「鶏肋集」「樅軒秘笈」「読史堂叢書」には、篤信の旧蔵文書が散在しており、全体で30点以上となる。斉藤が校長を務めた山形師範学校では、伊佐早謙も教鞭を執っていた。両者の交流を通じて、斉藤家から伊佐早に史料が譲渡されたと考えられる。

武家 (53点)

 元来は主に米沢藩士の家に伝来したと思われる史料を中心に、その他の武家旧蔵と思われる文書を含め便宜的に一括した。日記のほか、中世文書の写(№1079は原本)、書状類、漢詩文などが含まれる。

武芸書 (65点)

 ここには【剣術・弓術】【兵学・砲術】【馬術】【馬医術】に関する史料を収めた。大部分が武家文書と考えられるものの、点数が多いため別に立項した。
 剣術は3点が伝わり、そのうちの一つ登坂安之丞宛友光「長刀目録」(№1570)は卜伝末期流の伝書であり、この流派は景勝以下の藩主も学んだ流派である((27))。「日置流弓目録」(№1571―01)の日置流は米沢藩が導入した弓術流派の一つである。
 馬術書は黒川氏が許された八條流(№1563)、色部光長の人見流(№1567)の伝書がある。後者は慶長18年(1613)に創始者人見宗次が米沢を訪れた際に伝授され、同じく平林正恒にも与えられている。この時、宗次は米沢城二の丸に馬場を設営している。人見流は米沢藩に導入された。米沢藩では徒鞍流馬術も導入され、12代藩主斉憲への伝書も「上杉文書」に伝わる(【上杉家 ―文芸・遊興】参照)。【馬医術】は桑島流が多く収められている。米沢藩で馬の管理を行った御厩方の人事からは、複数の馬術の流派が確認できる。

岩間家 (151点)

 米沢城下大町の商人で、質屋を本業とした岩間勘三郎家の旧蔵文書がまとまって伝来し、江戸時代中期の証文類が多い。藩への上納金に関する【献金受領書】によれば、御手伝普請や江戸屋敷の類焼などに際し、岩間家は度々、数十両から100両ほどを上納しており、その財力が窺われる。
 その他は冊子を含め【証文等】として一括して編成した。これらの文書から、岩間家が福島や江戸、大坂まで範囲を広げ、古手などの船荷や為替の取引にかかわったことが判明する。複数の証文類を貼り継いで巻子状にし、貼紙で「古証文」の外題を付したものがほとんどを占める。これは後述の通り、伊佐早謙による収集、整理とみられる。

町方 (21点)

 ほとんどが藩への御用金関係の文書で、出所としては、大町の検断・寺島半七家や、同町の質屋・遠藤権兵衛家、東町の酒造業・小嶋弥左衛門家などが想定される。

村方 (34点)

 【米沢藩領】と、寛文4年(1664)以降は幕府領となった【屋代郷等】に区分した。後者は伊達郡や村山郡高楯村関係の文書を含む。【屋代郷等】の関連文書は、【藩政―御預所】と、後述の【諸家文書―貼継・貼込―古証文】も参照。

貼継・貼込(218点)

 収集史料を貼り継いで巻子に、または貼り込んで冊子に仕立てたもので、出所が一定でないものを収めた。後補表紙外題などの記載から、伊佐早謙が収集・編纂したものが一部含まれることがわかる。
 「古文書集」(№1065)は、中・近世の文書を主体とし、台紙に貼り付けられ、冊子状にされていた。「明応6国衙之帳」(№1065―08)、「国衙之日記」(№1065―09)は15世紀の検地帳であり、ほかにも中世の越後における領主支配の一端を示す史料が多く含まれる。天正18年(1590)の奥羽仕置関連の史料がまとまって収められている(№1065―24~34)。また、武田信清の江戸出府(№1065―51)や元和9年(1623)の上杉定勝上洛(№ 1065―40・41)、龍涎香の調合法(№1065―52・53)、古碑の拓本(№1065―45ほか)など、収められた文書の内容は多岐にわたれる((28))。
 「古筆題」(№1458)は、著名人の名筆や古筆を貼り込んだ、いわゆる手鑑の類で、江戸時代前期の連歌の懐紙も含まれる。年代未詳のものが多く、目録上は仮に大部分を「江戸後期」としたが、より古い史料も含まれている可能性がある。「諸名家真蹟集帖」(№1640)は、主に古賀精里や侗庵、米沢藩では神保蘭室といった儒学者や文人の漢詩が貼り込まれている。
 【古証文】は、主に竪紙や継紙の文書類を貼り継いで一巻とし、表紙には文書の紙背を転用している(表紙に転用された文書類も基本的に1点として採録した)。巻子の表紙にあたる部分に、伊佐早の筆跡で「古証文」の表題と、内容の目録を記載したものが多い(同様の「古証文」式の整理方法は、№0242、0246、0768などでも確認できる、備考欄参照)。出所としては、屋代郷のうち高畠村、川井村などの村方文書が中心である。№1743のみ性格が異なり、江戸前期の訴状、金銭の受領書、江戸中期の御師一志大夫の由緒書などが貼り継がれている。
 【表題無し】は、江戸時代前期から後期の状ものを貼り継いだもので、簡単な巻子3巻分となっている。武家と町方、村方の文書が混在し、町方では遠藤権兵衛家や、銅屋町の検断・長谷川次郎右衛門家の関連文書が含まれる。

  • (1)例えば、マイクロフィルム版目録の「Ⅳ藩政―1日帳・記録」では、出所を明示せず、藩全体の公的な「御日帳」と、奉行、御記録所や中の間といった諸部局の公務日記、個人の日記が混在している。
  • (2)国文学研究資料館『幕藩政アーカイブズの総合的研究』(思文閣出版、2015年)、同前『近世大名のアーカイブズ資源研究』(思文閣出版、2016年)他。
  • (3)①天明6年(1786)頃の「旧記目録」(市立米沢図書館所蔵・林泉文庫421)、②文化1年(1804)の「御記録所扱御長持入記」(№1465―05「樅軒秘笈 第2集 5」)、③1840~50年代の「局中書籍」と「分限帳目録」(№1457―16「鶏肋集」)、④明治1年(1868)頃の「御絵図目録別帳目録諸書物共」(№1975)。
  • (4)『山形県史 資料編16 近世史料1』(山形県、1976年)。
  • (5)『国史大系 徳川実紀』第1~10篇(吉川弘文館、1999年)、『上杉家御年譜』巻1~22(米沢温故会、1988年)。
  • (6)福原圭一「「米沢藩御書集」と『上杉家御書集成』」(『上越市史叢書6 上杉家御書集成Ⅰ』、上越市、2001年)。
  • (7)『上越市史叢書7  上杉家御書集成Ⅰ・Ⅱ』(上越市、2002年)や、『上越市史 別編1・2 上杉氏文書集1・2』(上越市、2003・2004年)に翻刻されている。
  • (8)『歴代古案』(続群書類従完成会、1993~2002年)全5冊として翻刻されている。
  • (9)『上杉家御年譜』第1~22巻(米沢温故会、1988年)として翻刻されている。
  • (10)主なものは岩本篤志編『米沢藩興譲館書目集成 第1巻』(ゆまに書房、2009年)に影印版が収録されている。
  • (11)№1056は『上越市史 別編2 上杉氏文書集(2)』などに翻刻されている。
  • (12)№1082・「古代士籍」(№1083)・№1087は『新潟県史 別編3 人物編』(新潟県、1987年)、№1087は『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』(上越市史、2004年)にも、№1085は矢田俊文・福原圭一・片桐昭彦編『上杉氏分限帳』(高志書院、2008年)などで翻刻されている。
  • (13)矢田俊文・福原圭一・片桐昭彦編『上杉氏分限帳』。
  • (14)類似の名称の編纂物として「代徭備考」21冊が宝暦7年(1757)に編纂されている(片山一積「先祖書」)。
  • (15)国立国会図書館デジタルコレクション所収。
  • (16)あわせて渡部恵吉「米沢藩の職制について」(『米沢市史編集資料 第1号』、1980年)を参照した。
  • (17)御記録方の活動と編纂した史料などについては、浅倉有子「記録方から見た米沢藩中期藩政改革」(『論集近世国家と幕府・藩』、岩田書院、2019年)他を参照。
  • (18)『米沢市史 資料篇2 近世史料1』(米沢市、1983年)。
  • (19)『米沢市史編集資料』第7・11・13・16・19号(米沢市史編さん委員会、1981年~1987年)として翻刻されている。
  • (20)『米沢市史資料編2(近世史料1)』(米沢市、1983年)に翻刻されている。
  • (21)『米沢藩戊辰文書』(日本史籍協会、1935年)。
  • (22)『米沢市史資料編4(近現代史料1)』(米沢市、1987年)。
  • (23)東京大学史料編纂所では、1933年(昭和8年)の謄写本20冊と、筆写年未詳の「編年上杉家記稿」巻13~15の写本3冊を所蔵している(同所データベースにおいてウェブ公開されている)。
  • (24)但し、紙幅の制限などにより、「樅軒秘笈」「読史堂叢書」「匯纂」については、中身が1点だった場合は表紙と中身を分けず、あわせて1点として採録した。
  • (25)国文学研究資料館のサイト(https://kokusho.nijl.ac.jp/page/guide.html)参照。あわせて、同館「国書データベース」の分類を参考にした。
  • (26)『新潟県史 資料編4 中世2』(新潟県、1983年)。
  • (27)『米沢市史 近世編1』(米沢市、1991年)。
  • (28)『新潟県史 資料編4 中世2』や『上越市史 別編1・2 上杉氏文書集1・2』(上越市、2003・2004)に越後分の史料が翻刻されている。