| 解説 |
「洛中洛外図」は、京の都を一望し、洛中(市中)と洛外(郊外)の四季と、
そこに生活する人びとの風俗を描き込んだものです。室町時代以降、数多く描かれ、
現存するものも少なくありません。
「上杉本 洛中洛外図屏風」は、数ある「洛中洛外図」のなかでも白眉と言えます。
室町後期に描かれた初期洛中洛外図の一つでありながら、保存状態がよく、画面は
豪華に、そして細やかに描かれており、一種のすがすがしさを覚えます。破綻なく
描かれた画面のバランスのよさは、作者である絵師の技量の高さを物語ります。その
作者は、画中の壺形印やその画風から、桃山絵画そして狩野派を代表する狩野永徳と
言われます。
描かれている京の様子は、右隻は下京、つまり東山方面を西側から俯瞰しており、
左隻に上京、つまり西山を東側から眺望するという構図で、右から夏・春・冬・秋と
季節を追うことができます。これは、屏風の立て方によりますが、向かい合わせに立て
れば、季節の推移の不自然さはなくなります。(一部の季節の乱れを除いては。)
また、画面上の方角にあわせれば、東に春、西に秋、南に夏、北に冬の景色を配置
しています。そして、その季節の中に、貴族の邸宅や、庶民の町のにぎわい、お正月の
風景、春の桜、夏の祇園祭、川遊び、紅葉狩、お年とりの準備など、今も息づく四季
折々の行事と人々の活き活きとした暮らしが広がっています。
天下統一を狙う織田信長が、天正二年(一五七四)上杉謙信へ贈ったと言われる
本屏風ですが、戦国武将同士が駆け引きを繰り広げる際の一つの道具ともなっていた
ようです。当時謙信は、越後と北信濃を拠点に、次第に勢力を増しつつあり、信長は武田氏
との対抗上、謙信を警戒するとともに、手を結びたいと考えていたと思われます。このような
ことから、洛中洛外図屏風の贈答にも信長の政治的な意図が強く含まれていたと考えられます。
この屏風は、謙信に贈られた後、長く旧米沢藩主上杉家に大切に保管されてきました。
上杉家は、初代藩主上杉景勝の時から城内に御堂を設け、謙信を家祖として祀っていました。
謙信を崇めていたからこそ謙信ゆかりの遺品を非常に大切に扱ってきたと考えられます。
昭和二八年(一九五三)には重要文化財に指定され、社会的にもこの屏風の保存が考えら
れるようになり、平成元年(一九八九)、米沢市市制百周年の年に、上杉家より米沢市
へと寄贈されました。平成七年(一九九五)には国宝へと指定がかわり、二一世紀の
現在まで受け継がれています。
「国宝 上杉本洛中洛外図屏風」2013より転記 |